「文章分析」とは。

私が筆を持つ限り、いつまでも持つことになるのはおそらくコンプレックスである。

 

もっと自分の心の奥にあるものを掘り起こすなら、それは誰かに対するコンプレックスではなく、こう書きたいという理想が高いだけなのかもしれない。

 

自分の文章に納得がいかない。そもそも文章って、「その人そのもの」が現れるのだから。自分の文章を客観的に見たとき、もしくは指摘されたとき「ああ、私ってひねくれているよね」と落胆するのである。

 

つまり、何一つ難しい内容など書いておらず、そして何一つ難しい言葉を書いているわけでもないのに相手に伝わらない。頭で考えているものがすんなり出てこない。

文章は相手に伝わってなんぼ、である。

 

私の場合、とてもひねくれているようだ。自分の文章を客観的に分析するれば、「見た目が良ければ、人は自分を好きになってくれる」そう語っているようだ。そんな文章を誰が、読みたいと思うんだ!って思ってしまう。

 

文章が捻り過ぎている。もうこれは直すのに手こずりそうだ。(気をつけるようにしているので、少しは良くなっているかも)

常套句の使い過ぎもそう……。

 

 

ある人は、その人となりが、いい具合に文章に現れていて、とっても雰囲気のある文章を書く。

 

それは素直な心があって、この人はこんな文章を書くんだなって、感心してしまう。

 

 

ある人は、難しい言葉を使いながらも決して嫌味にならない、簡潔かつ上品で学のある文章を書く。まさにその人そのもの。

 

私自身は、この人の書く文章を目標にしてきた。が、いまの私はそれすら忘れてしまっていた。

 

芸術はあくまで受け取った側の心にどう響くか、であって良し悪しは関係ない。

文章も同じで、何が良い悪いではなくて、書いたその人の「センスが一貫している」というところに、読む側は納得し、凄いと感銘し、その人を尊敬し、「センスが一貫している」その人の文章を愛するのだろう。

 

文章も芸術と同じである。

 

精神分析もいいが、文章を分析するのも結構自分のためになったりする。

ルサンチマンという攻防

昔、そうはるか昔、学生時代友人に誘われ六大学野球を何度か観に行った。

 

大学はなぜか東大か早稲田。圧倒的に東大が多かっただろうか。

何故早稲田や東大だったのか。特に東大に知り合いや友人がいたわけではないのに、友達はどうして固執していたのか理解できずに誘われるがまま行った。

 

たしか東大は弱かったような……。

それでも応援する友人を横目に私は東大法学部の応援団長に一目惚れをした。

思い切って声をかけ、電話番号の交換もした。

映画を観に行こうという話が出た。私は当時人気のあったアクション洋画のタイトルの名を挙げた。ところが彼は、そんな映画つまらない、山田洋次監督の「学校」が観たいと言ってきた。

それはもう完全に私を見下していた。

 

当時知り合いに東大生は二人いた。

私の中では、東大法学部の学生は「防御」、もう一人東大大学院生には「攻撃」とが入り乱れていたような気がする。

つまり、法学部の学生にはルサンチマンでしか自分を守ることができなかった。応援団長をしている時の流れる汗が心を打つ懸命な姿と、知性がにじみ出ている端正な顔立ち。もうそんな手が届かない美しいものへの憧れに、心は夢中になっていた。しかし、それがかえってルサンチマンを深くさせた。

もしかしたら、法学部の応援団長への深くなったルサンチマンを大学院生に晴らしていたのかもしれない。

江戸の敵を長崎で討つ、状態だろうか。

 

知性とは何だろう。

生まれ持って出てくるもの。それと、歳をとってにじみ出てくるもの。このふたつだろうか。

 

私も歳をとり、それなりに人を見てきたけれども、今となってはじゃあその法学部の学生が知性があったのかと言ったらわからない。

 

それにしても支配に屈する必要もない。

なぜなら人の上下はいつ入れ替わってもおかしくないものだから。

弱者だったのがある日突然強者になる。

 

今自分がしていることも、実はこの頃のルサンチマンからきているかもしれない。

だからこんな文章を書いているのだろうか。

韻を踏む、ということ

詩を書いてみました。

 

自分で気に入っている節です。

 

 

季節は刹那に心を巡る

青い田園風景を

雨が通り過ぎる頃

思いを懸けるその心が

重きをおく想い人

強く願う再会に

次の季節は雪が舞う

 

 

これは「頭韻」で考えたものです。

ですが、いかがでしょうか。いまいちリズムに乗っていないな、と思ってしまうのです。笑

次の詩は、韻を踏むことを考えたというよりも、思いの丈を書いてみた内容です。

 

 

恋は刹那に通り過ぎる

破片なるきみの投稿が

我が胸を深く刺す

眠りの中にいるきみに

心の海底に射すひかりが

希望の道を見つけたのなら

きみの道標となるだろう

 

 

ちなみに、いずれも繋がっている1つの作品であって、ここに書いた文章がすべてではありません。

 

正直言いますと、これらは初めて書いたものです。なのでまだまだ、ですが、考えていて楽しいことに変わりはありません。

やはり、言葉や文章、というものは書くものさえも心を揺さぶるとても深いものなのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開高と安吾の「女」と「性」に見る母性本能

またまた書いてしまった開高と安吾について。
久々に安吾を読んだので書いてみた。


開高と安吾の「女」と「性」。


「女」を凝視し、「女」に対する愛情の表現の仕方は作家みなそれぞれ違う。

例えば開高健の中の「女」は、今の時代で言う、男ウケする女だ。ある女は開高の前で自由奔放に振舞ったり、また別の女は開高の従うがまますべてを受け入れる。いずれもタイプは違うが、開高の理想とする女像が色濃く出てくる。表現で言えば、文学的(どこか美しくも儚げ)な生々しさを覚える。しかしそこに決して淫猥な表現はなく、あくまで儚さを感じるのだ。それでも表現に十分エロさを感じるのは、私が女だからだろうか。そこが開高健の「女」への、「性」に対して抱く情景なのかも知れない。そして開高の美学なのだろう。

 

 

夏の闇 (新潮文庫)

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反面、安吾にしてみれば、どこか「性」へ踏み込めない何か、愛情は強くても、性に対しては「隠」というイメージが見当たらない。女が愛おしくて愛おしくてたまらない。そんな感じ。安吾は性に関しても、とことん安吾らしい。
それは卑猥な行為そのものの表現ではなく、安吾が頭または心のうちで考える「女」という生き物に対する耽美的な捉え方が強い。

 

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

 

 

だが、女の私が分析すると、というかあくまで私の好みで分けてしまうのなら、安吾ではなく、開高を選ぶであろうな、と考えてしまうあたり、彼もかなり母性本能をくすぐられるタイプだと見た。 

安吾安吾で可愛いが。

 

「唯一無二」の強烈さ

随分と久しぶりに書いてみる。かなり放置してしまった。また少しずつ更新していきますので、よろしくお願い致します。

 

「唯一無二」という言葉。

私はある人との関係をある女性から、「唯一無二の存在だね」と言われたことがある。でもそこに、例えば男女の関係だとか、親友の存在だとか、そんなものはなかったはずである。ある女性も、そんな深いことが言いたかったわけではないだろう。では、そんな言葉がなぜ出てきたのか。私は考えた。おそらくそこに繋がらなくてはならなかった縁、つまり二人の間の空気中にある何か、に女性は唯一無二の存在を感じたのかもしれない。

 

この「唯一無二」。目に見えない深い繋がりを感じさせる言葉だ。本人が気づいていてもいなくても。言葉の意味は別だが、「絆」並みの繋がりの強さを感じる。もしかしたら、それ以上かもしれない。

 

私は女性の言葉に、何も答えることが出来なかった。わからないふりをしていたのかもしれないし、実際「唯一無二の存在」が何を指しているのかわからなかったのかもしれない。

 

 

「二つと無い私たちの関係は、それでも終わりを迎えるだろう。永遠なんてないのだから。」

 

生きとし生けるものの宿命である。

それくらい「唯一無二」という言葉は、強烈さを放つ。

「愛について」

私は精神障害者と接する機会がある。

 

私は医者でも、カウンセラーでもない。

そのとき、相手が精神障害者という意識があって接しているわけではない。

ここでの内容をどう受け止められるのかは、読んでいただける側に委ねるしかない。

 

まず、ここで誤解して欲しくないのは、精神障害者が特異というわけでもなく、人間としてそれ以上でもそれ以下でもないということ。世間でいわゆる健常者とされている人と同じである。

ただ知ってもらいたいのは、精神障害者には、何かに飛び抜けて優れている、それは障害からか、取り巻かれてきた環境からか、天才と呼ばれる人間がいることは事実である。

 

事実そういう男性と出会った。どんな病気を抱えているかは、ここでは言わないことにする。

二人の間に障害は常に生ずる。その度に「愛」は存在しなくなる。それは感情で動こうとする私の心が、そうさせる。冷静に考えれば、すべてを信じ受け止めることができるのである。

しかし、私たちのつながりには精神障害という障害がある。それがすべてなのか、他にも存在する別の障害がそうさせているのかは分からない。が、常に何かしら障害はついてまわる。

私の眼の前には「愛」が存在する。

 

愛というと、何を想像するだろうか。

美しいものだろうか。憧れるものだろうか。愛されたいと思うのだろうか。

 

私が愛することについて意識して考えるきっかけとなったのは、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』 二村ヒトシ著 を読んでからというものである。

私が最初この本を手にした頃、愛に対して、誰かのために尽くすのが愛でそれは美しいことなのだ、と思っていた。当時の私は、愛することは自分を捧げるものだ、と信じてやまなかった。

だがそうでなく、愛を与えるということは、そんなに易しいものではなく、決して美しいものではなかった。

 

何度泣き、苦しみ、投げ出そうとしたことか。だが、最終的にそこには愛おしく想う心だけが、残るのだった。

 

そして、愛すべき相手のために、とんでもない苦しみに襲われる。

私にとって愛するということは、とてつもなく過酷な道だった。

それは相手に障害があるからだった。相手のために耐える、耐える、耐える。だからといって、相手のせいにはしたくなかった。

いかに愛するか。

「相手を誇らしく思っていた。」それだけだった。

 

エーリッヒ・フロムはこう言っている。

重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。

つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

そして、フロムの次の文章が、私は好きである。

 

『他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。』

 

自分が愛することで、相手の気持ちが救われるというのなら、どんなことでも受けとめようじゃないか。

だから決して被害者にならないこと。これは大事なのだ。

 

俯瞰する自分

最近、筆が進まない。原因は考えてみたが、ない。少し休んでみた。

 

最近、いいことがあった。なので書いてみた。内容は書けない。

 

最近、気づかされた。自分は無知だったということを。

 

書けないという現象は、多くの文筆業の人が経験しているというのだ。自分にとってこのような事態は初めてだったので、戸惑った。もういい加減いいだろう。今書いているものも、書きたいではなく、書かなければと義務のように自分を動かしている。だが、やらなければならないことを、見失ったわけではない。いずれ、集中できる時がくるだろう。その時はまたアイデアが浮かんでくるに違いない。書く作業も独創の世界である。それから、職人のような繊細さも必要かもしれない。それは私自身の理想。

もう一度ゆっくり考えてみよう。自分の文章というものを。