俯瞰する自分

最近、筆が進まない。原因は考えてみたが、ない。少し休んでみた。

 

最近、いいことがあった。なので書いてみた。内容は書けない。

 

最近、気づかされた。自分は無知だったということを。

 

書けないという現象は、多くの文筆業の人が経験しているというのだ。自分にとってこのような事態は初めてだったので、戸惑った。もういい加減いいだろう。今書いているものも、書きたいではなく、書かなければと義務のように自分を動かしている。だが、やらなければならないことを、見失ったわけではない。いずれ、集中できる時がくるだろう。その時はまたアイデアが浮かんでくるに違いない。書く作業も独創の世界である。それから、職人のような繊細さも必要かもしれない。それは私自身の理想。

もう一度ゆっくり考えてみよう。自分の文章というものを。

人間の本質

人というのは、他人の意とする思考と情報でいくらでも振り回される。それの究極が思想であり、テロ。人は、追い詰められれば何にだってなれる。それも人の言葉で。みじかに存在するもの、一番はメディアで、テレビなり新聞、雑誌などでいくらでも植えつけられ支配されてしてしまう。でも今はもうメディアに私たちが頼ることも、支配されることももう古いのかもしれない。古いと言うか、ネットとと言う新しい媒体で多くの情報がわかる時代になってきて、自分の主義や意向を個々人が考え主張できる時代になった。反面、その選択がいくらでも悪い方へ悪い方へ流され、多くの思想がうまれる。テロと言う惨事を犯すものも、若者が多い。まだアイデンティティが確立されず、他人の意見に引きづられるのだろう。

 

フランス、イギリスでもいたたまれない惨事が起きている。これは私にとって、驚く出来事だった。ただ日本は陸続きではないという理由もあるが、いつ日本だって同じことが起こるか分からない。

 

ものごとの本質を見極めるのは難しい。これは昨今そうなのかもしれない。人間の本質(と言っていいのか分からないが)、もっと分かりやすい、やさしさや思いやりもそう、むずかしい思想に憧憬を抱き従うのではなく、人間が本来持つ心のあり方についてもっと考えて欲しいし、自分も考えたいなぁと思う今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

 

「堕落」、官能的であること

官能的なものって人だけじゃなくて、多くのものに形容されるのではないかと思うのだが。ダイレクトなものでなく。人それぞれ感じるものは違うかもしれない。そもそも官能的のイメージは決して安っぽくないのですよ。性的魅力のあるものというと、下品とまで言わないまでも、社会において必要のないものだと考えるのではないでしょうか。

 

例えば、官能的な街はどこだろう。私は、やはり台東区をあげてしまうわけです。官能的な小説家は、谷崎潤一郎渡辺淳一なんてダイレクトすぎて私のイメージではない。太宰治だろうか。「死」のイメージがあるからだろうか。エロティシズムなものを感じる。イメージするのはアルゼンチンタンゴとか。決して華美ではないこと、体を密着させ踊るのだが、どことなく寂しげで物憂げ、この踊りが下級層のものであることも官能さを増している。そうである、私の官能的なもののイメージは、「堕落」なのである。健全さとはまるで反対のものだ。しかしここでも言っておくが、下品ではない。堕ちていく。この言葉はとても好きなのだが、決して表立ってはいけない。これはあくまで、裏の別世界なのだ。普段社会の中に立っているのだが、それが堕ちていくとどうなるか。これがエロいのだ。しかし、何度も言うが安っぽいものではない。

 

官能的なものは何だろうか。これに関しては、まだまだ考える。ちょっと今回はメモ書きとして。

幻想即興曲にみる恋愛

 

幻想即興曲ショパンの曲で、私が学生の頃一番そばにあった曲であり、ショパンは常にみじかにあった。そこから音の輪が広がり、最も愛してやまないのはベートーヴェンピアノソナタ第23番「熱情」と現在に至る。静かに、激しくそして荒れ狂う外の風…と言うのが私のイメージする情景なのだが。どうだろうか。

音で表現するわけだから、そこに作り手の感情が入ってそれを聞く側が感じる、という楽しみが音楽にはある。曲の中にある感情を感じ取るのが、私は好きなのだ。

 

突如だが、恋愛は自己陶酔しないとできない。現実に戻れば、我にかえれば冷めていくようで。恋愛って(と、知ったようなこと言う)、まさに二人だけの世界で、周りの状況が見えなくなって、本人たちにしてみたら、勝手に盛り上がっているのだが、世の中は普通にまわっているのだ。それを考えれば、言い方悪いが、バカバカしくなったりして。それでも私は、こんなことを書いたりして、このバカバカしい恋愛というものを考える。なので私は自己陶酔できるのだ。音楽で感情を感じ取ることが好きな私は、恋愛もそうだが、この感情というものに、著しく反応する。なので、私はバカバカしい恋愛だなんて思わない。とめどなく書くが、要は音楽と恋愛と言うのは同じようなもの、と考えるのはどうだろうか。

以下は、私の自己陶酔に入り込んだラブレターである。自己陶酔入りまくりだ…

「 無邪気なその笑顔 永遠に失わないでいて 何にでもなれるよ

それをもし守っていけるなら」

私にできることをいつでも考える。でもそれは私のエゴでしかないことも分かっている。ただ笑顔を見たいから。私の左で笑っている、あなたの横顔見たいから。他に何もいらない。ただ欲しいのは笑っているその笑顔。それは何があっても守りたいもの。そう、どんなあなたであっても、いつも受け止めるから。それができる強い自分でいたい。どんな状況かもわかっている。それでも守りたいだけ。

 

 

揺さぶられる坂口安吾

坂口安吾bot 「恋愛というものは、いわば一つの狂気であろう。私の心に住むあの人の姿が遠く離れれば離れるほど、私の狂気は深まっていた。」

「愛し合うことは騙し合うことよりもよっぽど悲痛な騙し合いだ。」

坂口安吾語録である。もちろん恋愛もの語録はいっぱいあるのだろう。坂口安吾の恋愛は、心中穏やかではないと感じる。こんなことも言っている。「私の本当の喜びは恋をすることではない。肉欲にふけることではない。ただ、恋につかれ、恋にうみ、肉欲につかれて、肉欲をいむことが常に必要なだけだ。」ますます安吾は私の興味の対象になる。この人はどんな恋愛をしてきたのか。

 

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 

 安吾の本の中でおすすめされた本。あど堕落論だったかな。定かではない。読もうと思っていた本。この本はかれこれ10年ほど前に買った。後生大事にしまっていた。時間があるようだったら読みたい、などどいつも言い訳して読んでこなかったのである。

安吾は激情型なのだろうか。私の中で安吾は穏やかである。まだまだ「彼」を知らない。私はこう見えても、激情型である。彼とは相性が合うだろうか。感受性を激しく揺さぶられることに、快感を覚える。そんな女である。まだまだこれからの間柄なのだが、私は快感を得ることができるのだろうか。お互いぶつかり合うことはできるのであろうか。まだ見ぬ彼との、出会いを早く実現させなければ、と思った。

 

ラストスパート

もっともらしいこと言って、もっともらしい文章を書いているように自分で思うことがある。だがこれは自身しかわからないことかもしれないし、文章がよく分かっている人にはもうすでに気づかれているかもしれない。もっともらしいこと言って安心しているのかもしれない。きっと深いところを指摘されれば、言葉に詰まるのかもしれない。何とも言えない。自分で読み返してみれば「あれ?もう終わり??」と思ったりする。で、そこもう少し書けるよね?肝心なことは書かないの?といった具合に、自分で精神的に負荷をかける。かなりしんどい作業。またやってしまった。まぁ、ブログなんだから好きなように書けばいい。でももう限界。無理と思いたい、もしくはこれでいいと満足したりして。だが、本当にそれでいいのか。そう簡単に投げ出したくはない。何のために書いているのだかわからない。好きなように書くとなれば、自分のツマラナイ過去でも延々と語っていたっていいわけだし。しているツモリ、がいちばんタチ悪い。いちばん書きたくない文章だ。今日は少し後ろ向きかと思う。

 

近いうちにプレゼン形式で自分をアピールしようと思っている。内容は今まで書いてきたもの。時間を作ってもらおうとしている。正直考えるだけで、緊張する。大きな告白もある。内容はその時の周りの反応と、そして「あなたの胸の内」を明かしていただけませんか…?と聞いて回りたい。その反応や意見は、ブログにも書こうと思う。書けるような内容だったら…だが。

 

私にとっての、ラストスパートがいよいよ待っている。

心酔する文章

ブログに集中すると書かねばならないことが書けなくなる。なのでしばらくの間、中途半端な文章(自分の中で)になることは仕方ない。やらなければならないことに集中する。以前に書いたが、メルボルンにいる彼を追わなくてはならない、いや今は巴里だ。

 

ところで、人の文章を読んで心酔したことはないだろうか。私は、文筆屋ではないが、ある専門誌に連載している(セミプロというのか)人の書く文章が好きである。どこか男くさいのだが、どこか繊細なのだ。文章は人となりが出るものだと私は思っているので、おそらくその様な人なのだろう。私の解釈でいえばその様な人だと思っている。最初読んだのは、十年以上も前のことだ。そして数年前、ふただび目にする。変わっていなかった。繊細なところに、緻密さを増していた。どこか開高健の文章に似ている。言葉が散乱しているかのように使われているのだが、それは収まるべきところにおさまっていてそして新たな描写として印象付けている。開高のグロテスクかつ血なまぐさい表現が、その細工だけで、繊細で味わいのある描写に変わる。そんな感覚を覚えるのである。

私にとって心酔する文章とは、そのような文章だと思っている。まあ、好きな人がいたら、もれなく文章も好きになるのかな。

あこがれなのかもしれない。