福田奈美

精神・発達障害者のAIに消されない仕事の技術

私はAIの技術に詳しいわけではありません。ですが、私たち精神・発達障害者がこの先10年後も強みとして、身につけておきたい技術はもちろんあります。

 

それは特殊な技術でしょうか。いえ、そうともいえないと思います。

私は、精神・発達障害者が身につけたいこととして、「専門的な仕事」と言ってきました。

「手に職をつける」ということです。

 

最近、私に質問してきた方がいました。

「好きなことってどうやって見つけるんでしょうね」

その方は私が物書きをしているのを知ってこのような質問をしてきたのでした。

答えに困ったのはいうまでもありません。

なぜなら私も、どうしたら好きなことを見つけられるんだろう。自分の好きなことって何だろう。ってずっと自問自答してきたからです。

書くことに才能があったわけではありませんでした。特別好きだったわけでもありません。

ただ、今考えれば、

 

「人から褒められたことを大切にする・素直に受け入れる」

 

ことはとても大事だな、と私は思っています。

 

たとえば、口下手だけど、何かを書いたりすると素直に言葉が出てきて、人の心を動かすことができることは一つの才能です。視覚から得ることも、聴覚も、

そこから、創造できることはないでしょうか。

「専門的な仕事」は必ずしも難しいことばかりを指しているのではありません。

同じ仕事なら、雑より丁寧な方がいい。そんな仕事への臨み方も、その人の人柄が十分に出るクリエイティブな仕事の取り組み方でもあります。

そこからも何か創造できないでしょうか。

嫌なことを自分で義務にしてしまうことほど苦しいことはありません。

やっていて楽しい方が苦しいことよりいいに決まっていますよね。

 

 

人から褒められたことは「自分の強み」として、自信つけてほしいと思います。

「資格を取ること」ばかりが必要なことではありません。資格はあくまでツールなのです。たしかに、履歴書に資格があれば有利なのかもしれません。ですが、それはあなたが好きなことをするために必要なツールですか?となるのです。

 

 

10年後もあなたはそのツールで、仕事をしているのでしょうか。

いったいどんなAIの時代になり、残る仕事が何なのかまだ結果の出ていない今、想像してみてください。

あなたの「強み」を考えてみませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無邪気な笑顔を忘れないでほしい。

私の知り合いに、「発達障害らしき人」がいる。このような言い方をして果たして良いのかどうかわからない。

 

ただ、彼の天才とも言える、技術者としての他をも寄せ付けない強固たる才能は、私の脳裏に「発達障害」を連想してしまったのだ。彼の技術は日本にとどまらず世界各国にて功績をおさめている。

 

が、しかし、それだけで「発達障害」と決めつけるつもりはない。

人は好きなことを仕事にすることが誰にでもできるわけではない。彼はその「好きなこと」を子供のように柔軟な発想で、一つの物事を追求して生きてきた。

 

ただ、彼はその好きなこと以外、「何も考えられず」にいる。子供がそのまま大人になったかのように、会えば無邪気であり、好きなこと以外不器用であるところがありありと出ているのは確かだ。好きなことを考えること以外、余裕がない彼が(勝手に私はそう思っている)、常に人間関係に悩まされている。

 

ただ、社会にいれば好きなことばかりを考えているわけにもいかない。

 

ましてや、特に彼のような才能を持った人間なら、人の嫉妬裏切りなど、人の裏表を身近に感じているに違いない。そんな中を彼は心の傷として背負いながらも、「何かのせい」もしくは「何かしらの原因」など考えず、他人と向き合っている様は、痛々しささえ覚えるのである。好きなことに没頭してきた彼からすれば、自分の周囲にいる人間はすべて悩みの対象となり、これは不器用としか言えないのである。

 

子供の頃から変わらず大人になった彼は、私からすれば見ていれば微笑ましいとしか思えない。おそらく彼の頭の中に「発達障害」という言葉など一切ないだろう。もちろん私は精神科医ではないのだから、彼が障害を持っていると決めつけることは良くないことである。それより、私は他人が「発達障害」という言葉を彼の心に植え付けてしまうことがあって欲しくない。そして彼の心にも留めて欲しくない。

彼の頭の片隅ですら、置いて欲しくないのである。

 

発達障害の著名人は多い。日本の社長で言えば、楽天の社長も発達障害の傾向にあると自ら公言している。

しかし、本人が発達障害を認識しているのならともかく、発達っぽいと周囲が「思う」だけで、本人を悩ませるようなことはして欲しくない。

 

「天才かつ子供っぽさ」は彼が持って生まれた、生きる証でもあるのだから。

障害者が果たすべき役割とは

ノーマライゼーションという言葉が広まったのは、日本ではここ最近なのではないだろうか。1950年代にデンマークのバンク・ミルケルセンによる、知的障害者の家族会の施設改善運動から生まれた理念である。

 

障害を持っていても、施設に収容して隔離するのではなく、地域社会で普通の暮らしを実現する脱施設化など、障害のない人と一緒に暮らすのが当然であり、そうするべきという社会福祉の基本理念となった。以前からあった言葉だが、この数年で、日本でもノーマライゼーションという言葉だけでも認知されつつある。

 

法の基本理念として存在する。「ノーマライゼーションとは、障害者が他の一般市民と同様に社会の一員として種々の分野の活動に参加することができるようにしていこうとする理念」とし、「障害者である労働者は、経済社会を構成する労働者の一員として、職業生活においてその能力を発揮する機会を確保される(平成24年厚生労働省障害者雇用対策について』)」

 

 この理念が日本にもある限り、福祉社会にいる障害者も、一般社会での就労が可能になる。しかし、そのためには障害者も、一般社会で働くための意欲、知識や障害者の潜在能力も必要となる。それらが日本のノーマライゼーションとして障害者総合支援法のために、一般社会で働く私たちが障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現させる大切な法律である。

 

 発達障害者、精神障害者にとって、一般社会からの隔離はあってはならない。福祉社会にいる人が、一般社会の中で生活するためには社会的援助を受ける必要性があり、「経済社会を構成する労働者の一員として種々の分野に参加することができる」という基本的理念があり、何よりも「障害者自身の職業的自立に向けた努力が重要」(「障害者雇用対策について」平成24年厚生労働省)である。

 

私たちが必要としているのは、正当な権利と平等な評価、それに付随する賃金である。それらを得るためになくてはならないのは、支援制度である。しかし、そのためには、私たち障害者もモチベーションをアップさせなければならない。障害者が果たすべき役割を、私たちは理解し、持ち続けなければならないのである。まず、日常生活、社会生活を営むことができること。そして役割とは、一般社会の中で貢献できることなのであり、貢献とは世の中の役に立つことである。

 

 

弱くても、強く生きる(2)

【点でしかない私たち、精神・発達障害者ができること】

 

 

あくまで点でしかない個々人が、変化の遅い世の中でできることは、社会に認知されるよう「自律」する力を身につけることなのではないか。

 

 

彼らのうちの一人はこう話してくれた。「今後、雇用率が上がるわけだから、一人でも定着させなきゃならない、って企業は課題でもあるわけじゃない。だから、それを逆手にとって、自分がアピールして、こうならなきゃいけないんだって、思うんだよね。少しでも我慢して、乗り越えればまた違う景色が見えてくるんだよね。でも、その壁の前で一旦止まってしまうから、もったいないって」

 

ほんの少しでも可能性があるのなら、それに賭けてみる。

少なからず私はそう強く願って生きていこうと思う。

 

「自分には必ずできる。何が何でも突破してやる!」という確かな信念を持つことなのだ。それにより、点が線になるよう、線が面になるよう、願いが力となり、分け隔てのない社会となって、個々の価値が尊重されることになるのは可能なはずだ。

 

 

弱くても、強く生きる(1)

【社会から断切されてしまう人と就労した人の差】

 

 

精神・発達障害者で就労を果たし働き続ける人と、支援機関の段階もしくは就労活動を断念した人の間に、大きな差ができてしまうのは何が根本に存在しているのだろうか。

 

 

同じ障害者でも、就労という目標を達成できない人たちは、どうなるか。引きこもりがちになり、達成できなかったことへの挫折感は増していくだろう。

 

 

この先、そのような障害者をなくすためにも、何か手立てはないか、医師のみならず、地域でのケアの充実を図るべきだろう。すでにそういった何かしらの活動をしている地域はあるのかもしれない。

 

ケアとしての就労支援  こころの科学 メンタル系サバイバルシリーズ (こころの科学増刊)

 

 

 障害者が就労に踏みだそうとするまで、精神力と体力どちらも必要となる。その障害から一歩踏み出すことは容易ではない場合もあることを私も経験している。だが、私の場合は、ほぼ勢いで就労移行支援事業所へ入った。主治医から予告もなく、事業所の方を紹介され、あれよあれよという間に通うことになっていた。おそらく、その勢いが良かったのかもしれない。

 

 

 いま、何で就労移行支援事業所を選んだのか研修生に聞いてみれば、ネットで調べたという回答が多かった。つまり、就労移行支援事業所を知っていて、どこの事業所にしようか探す時点で就労を目指すという強い決断をしているわけである。そのような選び方をしている人たちは、勤怠もいいし、学ぶ姿勢がもう障害者とはいえない人が多かったりする。

 

真っ向から<自分のために><就労のために><生活のために>先を見ている。強い意志を感じるのである。もちろん迂曲紆余はある。

 

 

しかし、逆のケースもある。就労移行支援事業所へ通い始めたものの、一度休んでしまうと、体力的、精神的に、乱れがちになる。それが一週間も続けば、あらたに通所することが大変になる。

 

その根本にあるものは、働くことへの義務感や、働きたいという気持ち以上に強い、就労を拒む何か(挫折感であったり)を持っている場合もある。  

 

《続く》

 

 

「障害者」が消える日

 

精神障害者への日本の福祉はどうあるべきだろうか。

 

たとえばドイツでは、病床を減らそうとして社会への自立を促している。たとえ重度障害者でも施設ではなく、地域でのケアを重んじているのである。そして、先にも述べたように、障害者が積極的に業種を選び就労できるように、それを受け入れる土壌がある。

 

しかし、日本では重度障害者は病院といった施設に閉じ込めようとする。障害者を弱者に従う傾向にあり、保護すべき特別な存在なのだ。

 

だとすると、「障害者意識」は私たちが考え方を変えるべきところなのかもしれない。

 

日本の精神障害者が社会貢献を考えるのであれば、精神・発達障害者は、社会から「必要とされている人間」だと実感できることが大切である。自分たちが認められることで、やりがいを感じ、自分の持っているパフォーマンスを最大限に発揮することが、障害者がいるフラットな環境を創るために必要であることを、社会に認知されたいところである。

障害は1つの個性に過ぎないことを、当事者も家族もそして社会がそれを自覚するべきことなのである。

 

そして何より、障害者自身が、不自由だという前に、可能な限り社会生活を身につけることが大切である。たとえ生活保護を受けていても、ちゃんと国の助けから自立し、社会生活を送ることもできるのだ。

大きな壁を乗り越えられる人とそうでない人(4)

 

精神障害発達障害のハイレベルな労働力競争】

 

 外資系企業の合理的な面がすべて良いものなのか。それはわからない。日本は、向上心の強さ、仲間意識の強さ、それから伝統を守る心。それらがすばらしい成果を生み出し、世界をとどろかす力を持っていた。しかし、時代も変わり今までのやり方では適合しなくなってきた昨今、日本も変わろうとしている。欧米の力が揺るぎないものとされ、日本も欧米の考え方を取り入れて、変わらなければと、世の中が動き出している。平成も終わり、オリンピックイヤーとされる月日もあと一年。日本はどんな姿を見せるのだろう。そんな日本の社会で、私たち障害者は、どんな姿をして、立っていればいいのだろうか。

 

 1年、いや10年先、自分たちが何をしているか、何をしたいか、考えたことはあるだろうか。1年先なら考えられることでも、10年先のことは、意外と考えられずにいたりする。10年先の自分を明確に捉えることで、生き方がまた変わってくるだろう。ぜひ10年後の目標を考えてほしい。なりたい自分とやりたいことを想像してほしい。ちょうど今、働き方も変わろうとしている。

 

 精神障害者発達障害者の労働は、今後ハイレベルな労働力となるのではないか。企業も、即戦力を必要としている。経験のない新卒社員より、実務や技術の面で経験の多い精神障害者発達障害者で資格や技術を持った人材は、企業が必要としていることだろう。障害者の雇用が増えていく中で、いま以上に就労を目指す特化した障害者は増えていくことと思う。

 

 それはさらに、競争となって、社内でのみならず、対企業としてもレベルアップしていくのではないだろうか。専門的な分野に長けている人もいれば、資格や経験を持った人もいるだろう。いますでに知識のみでなく、ましてや年齢などで判断されない障害者たちが就労した後も企業で高い評価を得るために凌ぎを削っている。だからと言って、急げばいいものでもない。そこで、自分の障害と、強みはなんだったのか。もう一度思い出し、可能であれば、就労にチャレンジしてほしい。

 

 いまこそ、先にいる自分の世界を、考える頃ではないだろうか。