福田奈美

SMと芸術家

あさのNewsPicksでドラッグストアのマツモトキヨシが 22年ぶりに首位陥落という記事。

 と、書いている間にこの内容を考えるのだが指が止まる。

昼間は書く時間が取れずこの時間になってしまった。結局夜になってこのブログを書いている。

昨日のタイトルは、それそのものでひかれる人もいるのではないか。sadism、masochism、fetishism、eroticism、シュールレアリズムな退廃的世界と言っていいのかな。なんだか自分でもまだよく分かっていない。eroticismについては、思想家のジョルジュバタイユの本を読んだので頭にそれとなしに残っている。まだ追究の余地はある。そのほかに関しては、これから少しづつ手をつけたいと思う。eroticismだが、これは私たちが考えるようないわゆるeroticなものとは少し違う。人間の生と死から始まり、「死におけるまで生を称えること」がeroticismの根底にある。それについても、今は詳細は控えるが、いずれブログに書きたいと思う。

 

sadism、masochismから言うと、よく「SとMだったらどっち?」みたいな会話が男女間であったりするSMだろう。私なんかは、プレイとしてSMとは語れる知識はない。ただ、暴力的だからSだとか、Mだから弱々しいといった解釈はどうなのかと思う。私が考えたいのは、Sのひとと、Mのひとの精神の深いところで為す、精神世界を本来はさしているのではないかと思う。私はSMプレイはしたことがないので、実際のところどうなのかわからない。でも、通常私たちが生活している人間同士の接触より、そうした深い精神で結ばれる主従関係なら、興味が湧くし、憧れはするだろう。ちなみにエロティシズムのバタイユはサドについても論文を残している。

 

そして私はもう一つのシュールレアリズムとは全く別の世界に惹かれるのかもしれない。シュールな世界は非現実的、現実離れとあるが、その別とは、感情が激しく動く世界。それは激情を伴う(もしくはそのような感じの)、音楽(音楽家)が好みである。もちろんそれがすべて激しい音楽とは限らない。静かな中にも、激しいものが見え隠れする。よく知られているベートーヴェンなんかは分かりやすいのではないか。障害を抱えている。失われたものがあると、悶々としたものか何かが表現されるように感じる。特にベートーヴェンに関していえば、ピアノソナタはそのものではないかと思う。私が好きなのであえて出してみた。ベートーヴェンの曲を聴くことで、誰かから感受性を刺激されたいとか、何かを壊されたい壊したい、などと”たまに”思う人間である。

 

それが表現者の技術であり、才能でありセンスなのかもしれない。芸術の表現者は(私は小説も芸術だと思っているのだが)、苦悩とともに存在して作品が生まれるのなら、今ある自分を表現することも、精神世界と繋がるものはないだろうか。この話も定かではないが、精神を病み自殺する文学の作家に多い(?)のは、自分という人間を深いところで、「何か」を得ようとしている、得たのではないか。SMもそうだが「死の淵」というものは、エロティシズムにあるのだ。もう少しフラットな言い方をすれば、何かを得ようとしていたのではなく、何かを手放したくなったのかもしれない。表現とは限りのないものであって、それを突き詰めていけば、そこには何かが待っているのかもしれない。と考えてしまった。

 

ありがとうございます。

サディズムとフェチシズムの退廃的な写真

昨日は偉そうなことを書いているなと思いつつ、文章の書き方云々は別として、小説は芸術的なものではないだろうか。

 

今日は朝、このブログを書いているのだが、今日はやけに電車が混んでいる。

 

さて、私はヘルムートニュートンの本(自伝)や写真集を今手に入れている最中だ。決して安いものではないが、ベルリンへ行くことを考えれば安いものか。だが、時間がまず許さないし、金銭面も。突発的な行動に陥りやすい私でも、歳をとったのだろう。無茶なことはしない。ストッキングメーカーでダイアナ妃も愛用していて有名になったWolfordである。ヘルムートニュートンとのコラボ写真は探しているところだが、Wolfordとはこれのことである。f:id:naminishi:20170511094847j:image定番もので4・5千~円だろうか。特徴のあるパッケージがさらに高級感漂わせている。こういったWolfordの製品を身に付け、手足の長い女性が力強く立っている写真なのだ。とてもインパクトのある写真だ。彼の他の写真を見てみると、官能的でエロティックで、サディスティック、フェチシズムとこんな言葉が彼の写真を形容する言葉である。そんな退廃的な写真が、度肝を抜く。

芸術的センス

先日、公募へ応募するための作品を、原稿用紙3枚分ということで3枚みっちり書いたのだが自分のことを書くと、どうも周りの反応は良くない。面白くないのだろう。フィクションより、ノンフィクションを書いた方がいいと自分でもわかっているし、望んでいる。なぜフィクションは駄目なのだろうか。ある人からは、描写に多くの言葉を知っていないと、読み手に情景が見えてこないし、芸術的表現がないと、これはもう小説ではないと…。

 

それから「センス」。芸術的表現と近いところにあるのではないだろうか。これは作家になろうとするなら必要だ、というより磨かなければ、良い(と思われる)小説は書けないと私は思う。先に、言葉を知らないと書けないと言ったが、言葉をただ闇雲に知っていればいいわけではないし、知識があるからいい文章が書けるものでもない。やはり、辿り着くのは「センス」ではないだろうか。自分がどんな一節一節を書きたいか。自分の「センス」で表現できるのは小説のいいところだと、私は思う。

あとは、読点などにも私はその人のセンスが出ると思っている。私はたいてい好意を持った人の文章の癖、読点などの頻度など、マネしてしまう癖があるのだ。

だが

 

よくわかる文章表現の技術〈1〉表現・表記編 (新版)

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、やはり「センス」だけでものを書くのは上達に伸び悩む。小説も芸術とするなら、芸術は「センス」だけでは表現できないからである。基礎はしっかり身につけなければならない。そして最後に辿り着くのは「センス」である。

about me

大量な英語を前に、怖気づいている。いや、英語があるからだけじゃない。体が思うように動かない。

私にはよくあること。

制御不能になる。薬を飲んだ今はもう、泥酔状態だろうか。気分は落ち着いてきたのだが、ふらふらしながら、歩いている。「比較的、思考だけは使えそうだ。だからブログもなんとか書ける。」と私は、文章は書くことにしたのだ。

 

その眼の前で、愛犬はひっくり返ってお腹出して寝ている。

毎回毎回初めてだらけなことで、その時は「絶対無理」何て思っていても、結局間際でちゃんと提出している。それ考えると、「やれる」って思える。

あー、まずEvernoteをなんとかしないと。Evernoteは私のメモ書きの手帳に思いついたことをメモ取る大切なツールだ。私が思いついたものを、Evernoteに即座に書く。私の心の一部が入っているから。メモも写真も声も。気に入った言葉も。セキュリティーを「2段階認証」と、万全に万全を期してしまったために、新しい携帯に替えたら、見られなくなってしまった。どうしたら見られるようになってくれるのか、慎重に戻していくしかない。今回の執筆にもEvernoteは必需品なので、早くにしなければ。どなたか教えていただければ。もうすでに、前の携帯で、Google認証も、すべて2段階認証で機能していたので、まぁ、やってみます。

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ニュートン、性への解放

ヘルムート・ニュートンの写真を見たことない方、または好きという方に、ニュートンを イメージする女性像の写真をアップします。ニュートンが撮る写真の女性はとにかく強いのです。どんなにエロティックな写真だとしても、男に媚びる写真はなくて女性が強くあることでニュートンの写真には、現代のフェミニズムのあり方に繋がっているような気がします。女性が優位、または男性と対等であると、ニュートンは写真を通して訴えているかのようでもあります。これは私の推測ですが、レズビアンLGBT)を、彼のなかではすでに、女性の性の解放へとしてニュートンは写真を撮り続けていたように感じるのです。もしかしたら彼の女性へのイメージの根底はそこにあったのかもしれません。

まだまだ、これから知ることですが。f:id:naminishi:20170508102913j:imagef:id:naminishi:20170508102934j:image

 

猜疑心と憎悪の念

 今の醜い感情をそのままストレートに吐き出して書くのではなくて、この今の荒んだ感情を、美しく、綺麗に表現できるならいいのに。心の底からそう思う。「文章に盛る」ということとは具体的にどうすることなのか、今の私にはまだわかっていない。おそらく、今の私を、今書いている文字に当てはめてしまえば、それはもう、私の中ではやってはいけない最後の砦でとして、二度と見ることはできないだろう。

 以前、川端康成の「燕」の一部分を読んで感じ、つぎの感想を書いてみた。「風光明媚で美しい自然が頭に浮かんできたり、人物であったり音や色すべてが美しく鮮やかに臨場感たっぷりに表現されていて、本当に惚れ惚れする文章なのです。読んでいると、まるで目の前を過って行く(よぎっていく)風景のなかに、個々が浮かび上がってくるのです。川端康成の文章はまるでビデオを回しいるかのように、場面ごと事細かな表現がなされます。そのスクリーンを通して、原稿用紙にさらにリアルに書き上げているのでしょう。昔のモノクロの映像をカラーに変換したかのような鮮やかさが蘇ってくるのです。もちろん色もそうですが、川端の文章には、匂いもあるのです。頬に感じる空気と、雨上がりの匂い。…」

これは私の感じたことなのだが、心が乱れると酷い文章しか書けなくなる自分が恐ろしくなる。そんな時には、逆に美しく感動できる少しのことを書いてみようかと思う。

 ただ、私も出来た人間ではないから、猜疑心や憎悪の念が体の中を巡る。人を信じて嫌われて跳ね除けられて、苦しいとしか思えない時も、平常心でいられるよう、目の前の美しい情景が、風と、空気の匂いとが、目の前で表現できるよう、そんな自分でいたいのである。

だが、今の自分が醜い自分であるために、誰かにぶつけたいがために、私は今日も嘘をつく。

ホスピタリティとブランドの王道

40代にして初めて、ブランドの王道ともいうべきCHANELの財布を手にした。昨年の暮れに購入した(旦那様に買っていただいた)のだが、CHANELなんて縁ないだろうなと思っていたので、感動というより大げさだが感慨深いものがあった。
昔私にもそれなりに働いていて、ちょっとリッチだった頃があって、思い返せばCHANELエルメスだって買えたのに…。というか、あやうく男に貢ぐところだった。でも当時は王道のブランド品にあまり興味がなかったのが事実で、仕方なかったと言えば仕方なかった。あ、でも靴はディオールとかカオヴィラなんて買ったっけ。今では怪我しそうで、怖くて履けない。売りたいぐらいだ。
じゃあ何に費やしていたのかというと、かたちとして残らないものだった。一番高かったのがホテルのスパの会員権。それから当時の趣味が高級ホテルに泊まることだったので、お金はあぶく銭のごとく消えていった。それは、日頃死ぬ気で働いているのだから、自分を解放させてあげてもいいだろうという考え方で、私は物欲に走らず、いつかなんかの役に立つのではとの思いで、高級ホテルを泊まり歩いた。リッツ・カールトン東京・マンダリン・ペニンシュラパークハイアットグランドハイアット・あたりに泊まった。今行きたいのは、アマン東京・アンダーズ東京・シャングリラとかか。コンシェルジュの仕事に興味を持ったこともあった。インテリアにも興味を持った。その頃、漠然とホテルジャーナリストになりたいと、どこかで思ったいたのかもしれない。

ホテルのホスピタリティには以前から興味があった。いつか取材できたら、と思う。

それにしても、今収入が多かったら、貯金でしょ貯金。老後のためにね。