福田奈美

連日の恋のその後。

はてなブログは、投稿している日記なり、文章はかなり目にしていた。

私が見ていたのは、なんてことない(と言ったら失礼だろうか)日記のような文章。だが、その文章は毎回ブレることなく、まるで詩(うた)でも聞いているかのように、流れていく。それがとても楽しみだった。他にもフォローして読んでいた記事があった。よく読んでいたのは、本の紹介が多い日記。これはとても参考になった。年末には「今年読んだ本でよかったもの」は面白かった。あと定期的に読んだのは、デンマーク(だったかな)に住んでいる男性が日常を描いているもの。物語を書いている人も面白かった。結構読んでいたのではてなブログの存在は知っていたのだが、自分が使ってみると、なるほどと思わせる機能がある。文章をたくさん書きたい人にはいいのかもしれない。と思った。

 

とにかく今は、英語の山に埋まりつつある感じだろうか。だいたい今回のテーマに沿った本や、記事は揃いそうです。ですが、今回は英語だけではなく、ドイツ語までもが加わってくるんですね。ドイツ語に関しましては、ドイツ語に精通していらっしゃいます、大先生にお願いしているわけです。それにしても、写真集や自伝は高いですね。ヘルムートニュートンの自伝なんて、最高価格が40万以上もしていました。びっくりです。私は同じ自伝を2千円台で手に入れ、イギリスから到着するのを待っている状況です。Google翻訳やexcite翻訳を使ってみても、おかしな日本語なのですよね。なので、翻訳ソフトを買ったほうがいいのかな…と。どなたか教えて欲しいです…。

訳して、書いて、まとめる。だから、今までとはまた違ったところで苦労しそうです。今回はなぜかエンジンすぐかかりませんが、とにかく頑張りますよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連日の恋。

私、スターをいただきました。くださった方、どうもありがとうございます。

 

今日は雨ですね。家にいる分にはこんな日も決して嫌いではありません。

さて私は肝心要の原稿を書かなくてはならないのですが、このブログをアップさせるまでは、落ち着いて書けそうにないです。

ここだけの話ですが、笑。いま「会いたい人」と思う人っていますか?もちろん今いてもいなくてもいいのですが。私にはいます。自分にとってはとてもとても大切であることに違いはありません。会いたいくらいなんだから。愛おしくて切ないわけなのです。

ですが、昔私は「恋」と言うものは頭にはなくて、自分には「愛」しかないんだ。と、愛こそすべて!なんて考えていた頃がありました。というのも相手が私に「目の前にいた人(私)を愛することはできた」と言ったんです。もうそれ以来、すべてが私にとって「愛」だと思うきっかけになりました。笑 信じてしまいました。「私がしているのは愛で結ばれていて、恋なんてレベルではない。」でも、そう思えばそう思うほど、彼は離れていくような気がしていました。それは彼自身も「そう思ったような気がする」ってことだったんだろうと思うのです。彼は彼で、嘘をついたわけでもなく、おそらく「そう思えたような気がした」ってことだと思うのです。「恋なんて、いわばエゴとエゴのシーソーゲーム♪」なんですよ。恋愛はみんな自分の都合なのではないでしょうか。これはどちらが敗者でも勝者でもないし、ほんと恋とは、エゴなんです。それを擦り合わせていく作業が「恋」なのではないでしょうか。 私はその人のおかげで多くのことを教えてもらいました。いや、相手はそんなことした記憶はないでしょうけど。笑

 

今回の内容はなんかすっきりしていません。このテーマまた考え直して書きます。

 

ありがとうございます。 

 

SMと芸術家

あさのNewsPicksでドラッグストアのマツモトキヨシが 22年ぶりに首位陥落という記事。

 と、書いている間にこの内容を考えるのだが指が止まる。

昼間は書く時間が取れずこの時間になってしまった。結局夜になってこのブログを書いている。

昨日のタイトルは、それそのものでひかれる人もいるのではないか。sadism、masochism、fetishism、eroticism、シュールレアリズムな退廃的世界と言っていいのかな。なんだか自分でもまだよく分かっていない。eroticismについては、思想家のジョルジュバタイユの本を読んだので頭にそれとなしに残っている。まだ追究の余地はある。そのほかに関しては、これから少しづつ手をつけたいと思う。eroticismだが、これは私たちが考えるようないわゆるeroticなものとは少し違う。人間の生と死から始まり、「死におけるまで生を称えること」がeroticismの根底にある。それについても、今は詳細は控えるが、いずれブログに書きたいと思う。

 

sadism、masochismから言うと、よく「SとMだったらどっち?」みたいな会話が男女間であったりするSMだろう。私なんかは、プレイとしてSMとは語れる知識はない。ただ、暴力的だからSだとか、Mだから弱々しいといった解釈はどうなのかと思う。私が考えたいのは、Sのひとと、Mのひとの精神の深いところで為す、精神世界を本来はさしているのではないかと思う。私はSMプレイはしたことがないので、実際のところどうなのかわからない。でも、通常私たちが生活している人間同士の接触より、そうした深い精神で結ばれる主従関係なら、興味が湧くし、憧れはするだろう。ちなみにエロティシズムのバタイユはサドについても論文を残している。

 

そして私はもう一つのシュールレアリズムとは全く別の世界に惹かれるのかもしれない。シュールな世界は非現実的、現実離れとあるが、その別とは、感情が激しく動く世界。それは激情を伴う(もしくはそのような感じの)、音楽(音楽家)が好みである。もちろんそれがすべて激しい音楽とは限らない。静かな中にも、激しいものが見え隠れする。よく知られているベートーヴェンなんかは分かりやすいのではないか。障害を抱えている。失われたものがあると、悶々としたものか何かが表現されるように感じる。特にベートーヴェンに関していえば、ピアノソナタはそのものではないかと思う。私が好きなのであえて出してみた。ベートーヴェンの曲を聴くことで、誰かから感受性を刺激されたいとか、何かを壊されたい壊したい、などと”たまに”思う人間である。

 

それが表現者の技術であり、才能でありセンスなのかもしれない。芸術の表現者は(私は小説も芸術だと思っているのだが)、苦悩とともに存在して作品が生まれるのなら、今ある自分を表現することも、精神世界と繋がるものはないだろうか。この話も定かではないが、精神を病み自殺する文学の作家に多い(?)のは、自分という人間を深いところで、「何か」を得ようとしている、得たのではないか。SMもそうだが「死の淵」というものは、エロティシズムにあるのだ。もう少しフラットな言い方をすれば、何かを得ようとしていたのではなく、何かを手放したくなったのかもしれない。表現とは限りのないものであって、それを突き詰めていけば、そこには何かが待っているのかもしれない。と考えてしまった。

 

ありがとうございます。

サディズムとフェチシズムの退廃的な写真

昨日は偉そうなことを書いているなと思いつつ、文章の書き方云々は別として、小説は芸術的なものではないだろうか。

 

今日は朝、このブログを書いているのだが、今日はやけに電車が混んでいる。

 

さて、私はヘルムートニュートンの本(自伝)や写真集を今手に入れている最中だ。決して安いものではないが、ベルリンへ行くことを考えれば安いものか。だが、時間がまず許さないし、金銭面も。突発的な行動に陥りやすい私でも、歳をとったのだろう。無茶なことはしない。ストッキングメーカーでダイアナ妃も愛用していて有名になったWolfordである。ヘルムートニュートンとのコラボ写真は探しているところだが、Wolfordとはこれのことである。f:id:naminishi:20170511094847j:image定番もので4・5千~円だろうか。特徴のあるパッケージがさらに高級感漂わせている。こういったWolfordの製品を身に付け、手足の長い女性が力強く立っている写真なのだ。とてもインパクトのある写真だ。彼の他の写真を見てみると、官能的でエロティックで、サディスティック、フェチシズムとこんな言葉が彼の写真を形容する言葉である。そんな退廃的な写真が、度肝を抜く。

芸術的センス

先日、公募へ応募するための作品を、原稿用紙3枚分ということで3枚みっちり書いたのだが自分のことを書くと、どうも周りの反応は良くない。面白くないのだろう。フィクションより、ノンフィクションを書いた方がいいと自分でもわかっているし、望んでいる。なぜフィクションは駄目なのだろうか。ある人からは、描写に多くの言葉を知っていないと、読み手に情景が見えてこないし、芸術的表現がないと、これはもう小説ではないと…。

 

それから「センス」。芸術的表現と近いところにあるのではないだろうか。これは作家になろうとするなら必要だ、というより磨かなければ、良い(と思われる)小説は書けないと私は思う。先に、言葉を知らないと書けないと言ったが、言葉をただ闇雲に知っていればいいわけではないし、知識があるからいい文章が書けるものでもない。やはり、辿り着くのは「センス」ではないだろうか。自分がどんな一節一節を書きたいか。自分の「センス」で表現できるのは小説のいいところだと、私は思う。

あとは、読点などにも私はその人のセンスが出ると思っている。私はたいてい好意を持った人の文章の癖、読点などの頻度など、マネしてしまう癖があるのだ。

だが

 

よくわかる文章表現の技術〈1〉表現・表記編 (新版)

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、やはり「センス」だけでものを書くのは上達に伸び悩む。小説も芸術とするなら、芸術は「センス」だけでは表現できないからである。基礎はしっかり身につけなければならない。そして最後に辿り着くのは「センス」である。

about me

大量な英語を前に、怖気づいている。いや、英語があるからだけじゃない。体が思うように動かない。

私にはよくあること。

制御不能になる。薬を飲んだ今はもう、泥酔状態だろうか。気分は落ち着いてきたのだが、ふらふらしながら、歩いている。「比較的、思考だけは使えそうだ。だからブログもなんとか書ける。」と私は、文章は書くことにしたのだ。

 

その眼の前で、愛犬はひっくり返ってお腹出して寝ている。

毎回毎回初めてだらけなことで、その時は「絶対無理」何て思っていても、結局間際でちゃんと提出している。それ考えると、「やれる」って思える。

あー、まずEvernoteをなんとかしないと。Evernoteは私のメモ書きの手帳に思いついたことをメモ取る大切なツールだ。私が思いついたものを、Evernoteに即座に書く。私の心の一部が入っているから。メモも写真も声も。気に入った言葉も。セキュリティーを「2段階認証」と、万全に万全を期してしまったために、新しい携帯に替えたら、見られなくなってしまった。どうしたら見られるようになってくれるのか、慎重に戻していくしかない。今回の執筆にもEvernoteは必需品なので、早くにしなければ。どなたか教えていただければ。もうすでに、前の携帯で、Google認証も、すべて2段階認証で機能していたので、まぁ、やってみます。

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ニュートン、性への解放

ヘルムート・ニュートンの写真を見たことない方、または好きという方に、ニュートンを イメージする女性像の写真をアップします。ニュートンが撮る写真の女性はとにかく強いのです。どんなにエロティックな写真だとしても、男に媚びる写真はなくて女性が強くあることでニュートンの写真には、現代のフェミニズムのあり方に繋がっているような気がします。女性が優位、または男性と対等であると、ニュートンは写真を通して訴えているかのようでもあります。これは私の推測ですが、レズビアンLGBT)を、彼のなかではすでに、女性の性の解放へとしてニュートンは写真を撮り続けていたように感じるのです。もしかしたら彼の女性へのイメージの根底はそこにあったのかもしれません。

まだまだ、これから知ることですが。f:id:naminishi:20170508102913j:imagef:id:naminishi:20170508102934j:image