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猜疑心と憎悪の念

 今の醜い感情をそのままストレートに吐き出して書くのではなくて、この今の荒んだ感情を、美しく、綺麗に表現できるならいいのに。心の底からそう思う。「文章に盛る」ということとは具体的にどうすることなのか、今の私にはまだわかっていない。おそらく、今の私を、今書いている文字に当てはめてしまえば、それはもう、私の中ではやってはいけない最後の砦でとして、二度と見ることはできないだろう。

 以前、川端康成の「燕」の一部分を読んで感じ、つぎの感想を書いてみた。「風光明媚で美しい自然が頭に浮かんできたり、人物であったり音や色すべてが美しく鮮やかに臨場感たっぷりに表現されていて、本当に惚れ惚れする文章なのです。読んでいると、まるで目の前を過って行く(よぎっていく)風景のなかに、個々が浮かび上がってくるのです。川端康成の文章はまるでビデオを回しいるかのように、場面ごと事細かな表現がなされます。そのスクリーンを通して、原稿用紙にさらにリアルに書き上げているのでしょう。昔のモノクロの映像をカラーに変換したかのような鮮やかさが蘇ってくるのです。もちろん色もそうですが、川端の文章には、匂いもあるのです。頬に感じる空気と、雨上がりの匂い。…」

これは私の感じたことなのだが、心が乱れると酷い文章しか書けなくなる自分が恐ろしくなる。そんな時には、逆に美しく感動できる少しのことを書いてみようかと思う。

 ただ、私も出来た人間ではないから、猜疑心や憎悪の念が体の中を巡る。人を信じて嫌われて跳ね除けられて、苦しいとしか思えない時も、平常心でいられるよう、目の前の美しい情景が、風と、空気の匂いとが、目の前で表現できるよう、そんな自分でいたいのである。

だが、今の自分が醜い自分であるために、誰かにぶつけたいがために、私は今日も嘘をつく。