福田奈美

「文章分析」とは。

私が筆を持つ限り、いつまでも持つことになるのはおそらくコンプレックスである。

 

もっと自分の心の奥にあるものを掘り起こすなら、それは誰かに対するコンプレックスではなく、こう書きたいという理想が高いだけなのかもしれない。

 

自分の文章に納得がいかない。そもそも文章って、「その人そのもの」が現れるのだから。自分の文章を客観的に見たとき、もしくは指摘されたとき「ああ、私ってひねくれているよね」と落胆するのである。

 

つまり、何一つ難しい内容など書いておらず、そして何一つ難しい言葉を書いているわけでもないのに相手に伝わらない。頭で考えているものがすんなり出てこない。

文章は相手に伝わってなんぼ、である。

 

私の場合、とてもひねくれているようだ。自分の文章を客観的に分析するれば、「見た目が良ければ、人は自分を好きになってくれる」そう語っているようだ。そんな文章を誰が、読みたいと思うんだ!って思ってしまう。

 

文章が捻り過ぎている。もうこれは直すのに手こずりそうだ。(気をつけるようにしているので、少しは良くなっているかも)

常套句の使い過ぎもそう……。

 

 

ある人は、その人となりが、いい具合に文章に現れていて、とっても雰囲気のある文章を書く。

 

それは素直な心があって、この人はこんな文章を書くんだなって、感心してしまう。

 

 

ある人は、難しい言葉を使いながらも決して嫌味にならない、簡潔かつ上品で学のある文章を書く。まさにその人そのもの。

 

私自身は、この人の書く文章を目標にしてきた。が、いまの私はそれすら忘れてしまっていた。

 

芸術はあくまで受け取った側の心にどう響くか、であって良し悪しは関係ない。

文章も同じで、何が良い悪いではなくて、書いたその人の「センスが一貫している」というところに、読む側は納得し、凄いと感銘し、その人を尊敬し、「センスが一貫している」その人の文章を愛するのだろう。

 

文章も芸術と同じである。

 

精神分析もいいが、文章を分析するのも結構自分のためになったりする。