福田奈美

幸せという逃げ道

「幸せ」なんて言葉は、あちこちで溢れている。でも、「私って幸せ」と「私って不幸」と、どちらが口にする比重が多いだろうか。

「幸せ」というものは、自分の基準でいかようにもなる。そうは言っても、辛い時は来る。穏やかな生活があるけれど、それがいつ苦しくて不幸だと思う時が来るかわからない。でもその辛さが少しでも減らせる方法はある。ただ、前に書いた通り、「幸せは自分の基準でいかようにもなる」こと。もし穏やかな日々を送っているなら、今のうちに逃げ道も作っておくのが手かもしれない。自分にはこれがあるから、何かあっても辛さが軽減されるというもの。

不幸だと思うのはいくらでも思えるのに、「幸せ」と思うことは、なかなか浮かんでこなかったりする。例えば、誕生日にフレンチレストランで食事をして、素敵なプレゼントをもらって。それで「幸せ」なんて思ったりするのに、なんてことない普段の生活は自分にとって当たり前でしかない。つまり、幸せと思うには「意味づけ」である何かが必要であって、それf:id:naminishi:20170502181315j:imageがなければ幸せと感じられなくなっている。その反面、いくらでも不幸にはなれる。その不幸になった時、どうすればいいか。逃げ道をおすすめする。逃げ道はいくらでも作っていいのだ。

無理に「私は幸せだ」なんて思う必要はない。ひとつの細い線をひたすらまっすぐ辿っていく人生なんてこわくて過酷すぎるではないか。細い線を踏みはずしても、また線なり道はあるのだ。その道は「幸せ」と思えるのであれば、どんな道でもいいではないか。道徳から外れたとしても、それすらひとつの道だったりする。ただし、これはあくまで、自分の道でのことである。決して他人の道へ入ってはいけない。

 

幸せは、自分の中にだけある。

 

幸福論には、哲学者もあれば寺山修司もある。他の人の幸福論に興味あれば読んでみてください。これはあくまで自論である。