福田奈美

美しい何か

鬱憤が溜まることはよくあること。目の前にいたら殴ってやりたい、って物騒な話。忘れられるもんならきっと忘れている。坂口安吾の本でも読んでやろうかと脈略のないこと考える。堕落論か恋愛論か、安吾の本はきっと私の味方をしてくれる。安吾はいい人だ。

いまそこから、何が見えるだろう。愛なんか見えやしない。美しいもの?目の焦点が合わなくて見えない。見えるのは画面に貼り出された、関数式だけ。世の中には普遍的なものと、必ずひとつのものにおさまるものがある。抽象的なこと言えば、すべてが分かったかのような気になったりして。偉そうに背後から近づいてくる。正面だろ、正面。何も見えない、何も感じない、何も聞こえない言葉だけが、目の前で踊っている。クラウドに格納された想いは自分すらも取り出せず、ひとつずつ消えていく。悲しいほどに、嫉妬して。こんな想いはどこに辿り着くのだろう。

明日の私はあなたを思い出すことはないだろう。なぜなら、あなたを忘れたことがないから。

美しいものがすべてにおいてすばらしいものかどうか、今の私にはわからない。破滅的な何かが美しいと思えることもある。

だんだんと夜明けは早くなる。はじまりは早くなる。言葉がバラバラになって消えないうちに、この想いを残したい。

 

明日の今は何かとたたかっている。あなたのために。自分のために。あなたが守りたいものは何?私が守ろうとしているものは。決して美しいなど思われない私の心が誰の目にも触れないように。

今度のお相手。

なんだかんだで、今度の内容が決まりそうです。でも、また難易度が高そうです。出来ない英語とドイツ語を駆使しなければなりません。それはムリです。でもなんとかします。しなければなりません。英語とドイツ語がお分かりになる方、助けていただけませんでしょうか…

 

今度は、評伝にしました。ベルリン出身の写真家のヘルムート・ニュートンが対象です。

私のヘルムート・ニュートンとの出会いは、Wolfordという、ウィーンのストッキングメーカーニュートンのコラボ写真でした。美しさの中にもしなやかで、力強い女性の写真に心奪われました。ニュートンは2004年に事故でこの世を去っています。ですが、まだ今なお彼の写真は日本ではインテリアショップなどで売られているなど世界にヘルムート・ニュートンのファンは多いのです。私も好きなので一冊持っています。彼の功績をたたえた、ニュートン財団のドイツ語でのサイトがあるのですが、訳していただいた文章から彼がいかに素晴らしい写真家で彼の経歴が変わっているか分かるとのことでした。おそらく、今回はヘルムート・ニュートンでいくでしょう。

 

翻訳が大変かと思いますが、今回も頑張ります。

幸せという逃げ道

「幸せ」なんて言葉は、あちこちで溢れている。でも、「私って幸せ」と「私って不幸」と、どちらが口にする比重が多いだろうか。

「幸せ」というものは、自分の基準でいかようにもなる。そうは言っても、辛い時は来る。穏やかな生活があるけれど、それがいつ苦しくて不幸だと思う時が来るかわからない。でもその辛さが少しでも減らせる方法はある。ただ、前に書いた通り、「幸せは自分の基準でいかようにもなる」こと。もし穏やかな日々を送っているなら、今のうちに逃げ道も作っておくのが手かもしれない。自分にはこれがあるから、何かあっても辛さが軽減されるというもの。

不幸だと思うのはいくらでも思えるのに、「幸せ」と思うことは、なかなか浮かんでこなかったりする。例えば、誕生日にフレンチレストランで食事をして、素敵なプレゼントをもらって。それで「幸せ」なんて思ったりするのに、なんてことない普段の生活は自分にとって当たり前でしかない。つまり、幸せと思うには「意味づけ」である何かが必要であって、それf:id:naminishi:20170502181315j:imageがなければ幸せと感じられなくなっている。その反面、いくらでも不幸にはなれる。その不幸になった時、どうすればいいか。逃げ道をおすすめする。逃げ道はいくらでも作っていいのだ。

無理に「私は幸せだ」なんて思う必要はない。ひとつの細い線をひたすらまっすぐ辿っていく人生なんてこわくて過酷すぎるではないか。細い線を踏みはずしても、また線なり道はあるのだ。その道は「幸せ」と思えるのであれば、どんな道でもいいではないか。道徳から外れたとしても、それすらひとつの道だったりする。ただし、これはあくまで、自分の道でのことである。決して他人の道へ入ってはいけない。

 

幸せは、自分の中にだけある。

 

幸福論には、哲学者もあれば寺山修司もある。他の人の幸福論に興味あれば読んでみてください。これはあくまで自論である。

恋する対象

評論を書く機会があったので、開高健を取り上げてみた。

あぁ、もう少し開高を愛してあげればなと思った。あまりにも時間が短すぎた。

私が文章を書く対象は、恋する対象で、愛すべき文章でもある。それが人でも同じことだ。なるべくなら寄り添っていたいし、理解してあげたい。

「輝ける闇」での開高健の文章も最高である。初めて触れた時、妙な衝撃を覚えた。散乱たる言葉たちは、開高によって見事に組み合わされ文章に意味をもたらす。

だが、決して華美ではなく、時

 

輝ける闇 (新潮文庫)

輝ける闇 (新潮文庫)

として簡潔で繊細で、時として生々しく、グロテスクなものにもなる。興奮とともに最後を終えるのだが、映画でも見たかのような余韻が残る。 

開高は58才という若さでこの世を去っている。「ダンディズム」がよく似合う男である。私もどれだけ彼を知り尽くしているわけでもなく、「これからあなたを知っていきたいの。」といったところだろう。これはたしかではないが、開高は「異端」だったのではないか。それは、三島由紀夫大江健三郎など、いわゆる美しい純文学を執筆したとすれば、開高は戦争という自分の実体験をもとに小説にして、大江健三郎ノーベル文学賞とは別の道へいったのである。あの三島由紀夫ですら、開高を一目置いていたように思われる。「輝ける闇」の最後の解説に三島の言葉が出てくる。

 

今回の評論では、開高文学といいお付き合いができた。大げさに言えば、私の中に開高の「生きる証」が芽生えたようだ。しかしこれはこの本を読めば誰の心にも彼の生きる証は生まれる。人間は死を前に強靭な心でなんかいられない。開高もまたそうである。この小説の中で、彼がもたらしたものは?と聞かれれば、私ははっきり「ない」と答えよう。なぜなら彼は戦争の是・非でなく、人の死が、戦争の凄惨が、この小説で現実となるよう、ただそれだけで書いていたのではないかと思ったのである。

 

 

 

 

バベルの塔と最近のヒット

f:id:naminishi:20170501213157j:plain

あぁ、まったくライターとしての機能果たしていない…。が、こんなこと書けるのも今のうちなので、書くとする。

 

バベルの塔、良かったってすすめてくださったので、行きますよ。でも連休入ってしまったから、混んでいるかな。なんだか楽しみ。携帯変えたのだが、Plus使っていた私は、妙にこれが小さくてかわいい。でも小さくて失くしそうで落としそうで怖い。これはRetinaディスプレイで多分美しいのだろう。比べていないからわからない。カバーはつけたくなかったので、奮発してバンパーをつけてみた。それからフィルムもガラスにして、一応備えたわけだが。Evernoteが未だに使えないのがとても不便でならない。旦那からは、女の子が持つ感じじゃないね。と言われたが、女の子じゃないしね。

 

今日は、いや今日も楽しかったなぁ。Mさん(女性)とは馬鹿笑いさせてもらっている。ブログを書き始めたと言ったら、「私みたいな女もいるって書いていいよ〜」って言われたので、書かせてもらっている。歯が折れたとかで、面接行くのにセメダインで歯をくっつけていったらしい…。ウケる。彼女らしいといったら失礼だろうか。打たれ強いところは大変うらやましい。

 

次のノンフィクション大賞の企画書がボツになってしまった。仕方ない。確かに自分でも何か薄っぺらいものを感じていたから。とりあえず、勧めていただいた松下竜一を読んでみることにした。

とにかく頑張るとする。

賞金女王

ゴルフではない。小説やノンフィクションの賞だ。かれこれ3回応募した。賞など取ったことはない。私が応募するのはノンフィクションだが、3回目は評論にチャレンジした。かなり無謀だった。論文もまともに書いたことがなければ、そもそも評論って何から始まって、どうやって書けばいいの?と、慌てて「群像」を買って読む始末。だが、自分からか書きたいと言い出したことで、誰に命令されたわけでもない。だから今回の意気込みは相当なものだった。だからと言って順風満帆なわけでもなくて、「もう書けないかもしれない」という不安が付きまとっていた。しかも「純文学」と「思想」を取り上げるという、私の中ではハイレベルまで持っていって自分の首をしめたのである。

 

だが、なぜか書いたことのないものだったのに、だんだんと「何か」を掴むと自由に書いている自分がいたのだ。その何かとは、「思想」だったら「思想」の歩き方だろうか。旅行のガイドブックにある地球の歩き方のタイトルことである。「思想」には「思想」の歩き方があって、何度か読んでいるうちにおおよそ景色が広がってくる。それを文章にするには、今度は足元をちゃんと見て、インプット・アウトプットを繰り返す。これが初心者である私の書き方だった。きっと、達人にはこんな歩き方は笑われるだろう。しかし、今回二ヶ月という短期間で、小説を読んで、思想を読んで、急がば回れなどという余裕もなく、とにかく本を読みあさった。しかし、時間が取れないものがあって、それは推敲だった。いざ書き終わって推敲となって、訂正・加筆と繰り返していると構成がずれてくる。それは私の構成力の甘さだろうか。「群像」を読んでいると、ある優秀作品に選ばれていた人の文章はとても優しいのだが、やはり良い作品というのは、構成力がしっかりしている。表面を良く見せようとしている割には、中身がなっていないもの、表面だけでは、プロの審査員にはお見通しである。私はどう映るのだろう。だが、最終予選まで残りたいのは事実だ。

 

常にその時のハイレベルでいきたいと考えている。次はノンフィクションでさらなるレベルを上げていきたい。

 

初めてのブログだが、こんな程度で勘弁してほしい。