福田奈美

ニュートン、性への解放

ヘルムート・ニュートンの写真を見たことない方、または好きという方に、ニュートンを イメージする女性像の写真をアップします。ニュートンが撮る写真の女性はとにかく強いのです。どんなにエロティックな写真だとしても、男に媚びる写真はなくて女性が強くあることでニュートンの写真には、現代のフェミニズムのあり方に繋がっているような気がします。女性が優位、または男性と対等であると、ニュートンは写真を通して訴えているかのようでもあります。これは私の推測ですが、レズビアンLGBT)を、彼のなかではすでに、女性の性の解放へとしてニュートンは写真を撮り続けていたように感じるのです。もしかしたら彼の女性へのイメージの根底はそこにあったのかもしれません。

まだまだ、これから知ることですが。f:id:naminishi:20170508102913j:imagef:id:naminishi:20170508102934j:image

 

猜疑心と憎悪の念

 今の醜い感情をそのままストレートに吐き出して書くのではなくて、この今の荒んだ感情を、美しく、綺麗に表現できるならいいのに。心の底からそう思う。「文章に盛る」ということとは具体的にどうすることなのか、今の私にはまだわかっていない。おそらく、今の私を、今書いている文字に当てはめてしまえば、それはもう、私の中ではやってはいけない最後の砦でとして、二度と見ることはできないだろう。

 以前、川端康成の「燕」の一部分を読んで感じ、つぎの感想を書いてみた。「風光明媚で美しい自然が頭に浮かんできたり、人物であったり音や色すべてが美しく鮮やかに臨場感たっぷりに表現されていて、本当に惚れ惚れする文章なのです。読んでいると、まるで目の前を過って行く(よぎっていく)風景のなかに、個々が浮かび上がってくるのです。川端康成の文章はまるでビデオを回しいるかのように、場面ごと事細かな表現がなされます。そのスクリーンを通して、原稿用紙にさらにリアルに書き上げているのでしょう。昔のモノクロの映像をカラーに変換したかのような鮮やかさが蘇ってくるのです。もちろん色もそうですが、川端の文章には、匂いもあるのです。頬に感じる空気と、雨上がりの匂い。…」

これは私の感じたことなのだが、心が乱れると酷い文章しか書けなくなる自分が恐ろしくなる。そんな時には、逆に美しく感動できる少しのことを書いてみようかと思う。

 ただ、私も出来た人間ではないから、猜疑心や憎悪の念が体の中を巡る。人を信じて嫌われて跳ね除けられて、苦しいとしか思えない時も、平常心でいられるよう、目の前の美しい情景が、風と、空気の匂いとが、目の前で表現できるよう、そんな自分でいたいのである。

だが、今の自分が醜い自分であるために、誰かにぶつけたいがために、私は今日も嘘をつく。

ホスピタリティとブランドの王道

40代にして初めて、ブランドの王道ともいうべきCHANELの財布を手にした。昨年の暮れに購入した(旦那様に買っていただいた)のだが、CHANELなんて縁ないだろうなと思っていたので、感動というより大げさだが感慨深いものがあった。
昔私にもそれなりに働いていて、ちょっとリッチだった頃があって、思い返せばCHANELエルメスだって買えたのに…。というか、あやうく男に貢ぐところだった。でも当時は王道のブランド品にあまり興味がなかったのが事実で、仕方なかったと言えば仕方なかった。あ、でも靴はディオールとかカオヴィラなんて買ったっけ。今では怪我しそうで、怖くて履けない。売りたいぐらいだ。
じゃあ何に費やしていたのかというと、かたちとして残らないものだった。一番高かったのがホテルのスパの会員権。それから当時の趣味が高級ホテルに泊まることだったので、お金はあぶく銭のごとく消えていった。それは、日頃死ぬ気で働いているのだから、自分を解放させてあげてもいいだろうという考え方で、私は物欲に走らず、いつかなんかの役に立つのではとの思いで、高級ホテルを泊まり歩いた。リッツ・カールトン東京・マンダリン・ペニンシュラパークハイアットグランドハイアット・あたりに泊まった。今行きたいのは、アマン東京・アンダーズ東京・シャングリラとかか。コンシェルジュの仕事に興味を持ったこともあった。インテリアにも興味を持った。その頃、漠然とホテルジャーナリストになりたいと、どこかで思ったいたのかもしれない。

ホテルのホスピタリティには以前から興味があった。いつか取材できたら、と思う。

それにしても、今収入が多かったら、貯金でしょ貯金。老後のためにね。

 

官能に満ちた生き方

さっそくヘルムートニュートンの本を手に入れる。この本の存在は知らなかったので、入手できてよかった。写真集のようだが、彼の生涯を閉じるまでの足跡が分かるよう、文章も多く載っている。これを根気よく訳してみることにする。だが、それをどのような切り口でいくかはまだ考え中。先日、偶然にも!ヘルムートニュートンでいこうと話がまとまった日、精神科医の先生がベルリンにいらして、ミュージアムと言っていいのか、中の情報を得ることができた。ヘルムートニュートンは、ファッションやフェティッシュなどの、官能的な写真を撮ることで知られている写真家だが「パパラッチ的なゴシップとか、犯罪者の裁判なども撮っていたそうでした。」とまた知らない面も教えていただけた。そのほかにも彼がフランスにいた時の部屋の様子も展示してあったそうだ。私は本気でベルリンに行きたくなった。

ファッション性の高い、官能的な女性の写真は、どれも高貴に満ち溢れている。

 

これから執筆内容はブログに書くことはできないが、メモ書き程度に書くこともあるだろう。

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美しい何か

鬱憤が溜まることはよくあること。目の前にいたら殴ってやりたい、って物騒な話。忘れられるもんならきっと忘れている。坂口安吾の本でも読んでやろうかと脈略のないこと考える。堕落論か恋愛論か、安吾の本はきっと私の味方をしてくれる。安吾はいい人だ。

いまそこから、何が見えるだろう。愛なんか見えやしない。美しいもの?目の焦点が合わなくて見えない。見えるのは画面に貼り出された、関数式だけ。世の中には普遍的なものと、必ずひとつのものにおさまるものがある。抽象的なこと言えば、すべてが分かったかのような気になったりして。偉そうに背後から近づいてくる。正面だろ、正面。何も見えない、何も感じない、何も聞こえない言葉だけが、目の前で踊っている。クラウドに格納された想いは自分すらも取り出せず、ひとつずつ消えていく。悲しいほどに、嫉妬して。こんな想いはどこに辿り着くのだろう。

明日の私はあなたを思い出すことはないだろう。なぜなら、あなたを忘れたことがないから。

美しいものがすべてにおいてすばらしいものかどうか、今の私にはわからない。破滅的な何かが美しいと思えることもある。

だんだんと夜明けは早くなる。はじまりは早くなる。言葉がバラバラになって消えないうちに、この想いを残したい。

 

明日の今は何かとたたかっている。あなたのために。自分のために。あなたが守りたいものは何?私が守ろうとしているものは。決して美しいなど思われない私の心が誰の目にも触れないように。

今度のお相手。

なんだかんだで、今度の内容が決まりそうです。でも、また難易度が高そうです。出来ない英語とドイツ語を駆使しなければなりません。それはムリです。でもなんとかします。しなければなりません。英語とドイツ語がお分かりになる方、助けていただけませんでしょうか…

 

今度は、評伝にしました。ベルリン出身の写真家のヘルムート・ニュートンが対象です。

私のヘルムート・ニュートンとの出会いは、Wolfordという、ウィーンのストッキングメーカーニュートンのコラボ写真でした。美しさの中にもしなやかで、力強い女性の写真に心奪われました。ニュートンは2004年に事故でこの世を去っています。ですが、まだ今なお彼の写真は日本ではインテリアショップなどで売られているなど世界にヘルムート・ニュートンのファンは多いのです。私も好きなので一冊持っています。彼の功績をたたえた、ニュートン財団のドイツ語でのサイトがあるのですが、訳していただいた文章から彼がいかに素晴らしい写真家で彼の経歴が変わっているか分かるとのことでした。おそらく、今回はヘルムート・ニュートンでいくでしょう。

 

翻訳が大変かと思いますが、今回も頑張ります。

幸せという逃げ道

「幸せ」なんて言葉は、あちこちで溢れている。でも、「私って幸せ」と「私って不幸」と、どちらが口にする比重が多いだろうか。

「幸せ」というものは、自分の基準でいかようにもなる。そうは言っても、辛い時は来る。穏やかな生活があるけれど、それがいつ苦しくて不幸だと思う時が来るかわからない。でもその辛さが少しでも減らせる方法はある。ただ、前に書いた通り、「幸せは自分の基準でいかようにもなる」こと。もし穏やかな日々を送っているなら、今のうちに逃げ道も作っておくのが手かもしれない。自分にはこれがあるから、何かあっても辛さが軽減されるというもの。

不幸だと思うのはいくらでも思えるのに、「幸せ」と思うことは、なかなか浮かんでこなかったりする。例えば、誕生日にフレンチレストランで食事をして、素敵なプレゼントをもらって。それで「幸せ」なんて思ったりするのに、なんてことない普段の生活は自分にとって当たり前でしかない。つまり、幸せと思うには「意味づけ」である何かが必要であって、それf:id:naminishi:20170502181315j:imageがなければ幸せと感じられなくなっている。その反面、いくらでも不幸にはなれる。その不幸になった時、どうすればいいか。逃げ道をおすすめする。逃げ道はいくらでも作っていいのだ。

無理に「私は幸せだ」なんて思う必要はない。ひとつの細い線をひたすらまっすぐ辿っていく人生なんてこわくて過酷すぎるではないか。細い線を踏みはずしても、また線なり道はあるのだ。その道は「幸せ」と思えるのであれば、どんな道でもいいではないか。道徳から外れたとしても、それすらひとつの道だったりする。ただし、これはあくまで、自分の道でのことである。決して他人の道へ入ってはいけない。

 

幸せは、自分の中にだけある。

 

幸福論には、哲学者もあれば寺山修司もある。他の人の幸福論に興味あれば読んでみてください。これはあくまで自論である。