福田奈美

ハルキについて

作家村上春樹に対し、みんなどんなイメージを持っているのだろうか。私が周囲に聞いたかぎりでは、あまり芳しい印象の答えはない。「ムラカミハルキ」という名前は本を読んだことがなくても、誰もが知っている。それは本人がメディアに出なくても、メディアが「ムラカミハルキ」を取り上げるからだろう。それはもちろん世界のムラカミハルキであり、メディアで取り上げるに相応しい内容のともなう行動をとるからである。なぜ私の周りは良いイメージがないのか?聞けば、本の内容にあるという。読んだことがある人はわかるだろうが、彼の小説にはお洒落な銘柄がよく出でくる。もともとジャズ喫茶を経営していたムラカミハルキは、ジャズナンバーはもちろんのこと、玄人受けすることにおいても詳しい。私はハルキストではないので、マニア受けする、いやメディア受けする情報は定かではないのだが彼のWikipediaを見れば、おしゃれ~な部分は一目瞭然だろう。そして小説を読めば「主人公でお洒落なイケメンの若い男性」が出てくる。どうやら、ムラカミハルキにとっつきにくく感じるのはあまりにも、ハルキが書くものに「自分のもっているモノを投影」させているからではないか。それはどこか、高いところから世の中を俯瞰しているかのように感じるのである。意識が高いと言うのとは、また別のものだ。ただ、文章はとても読みやすい。誰もが手を出しやすい内容なのだ。

 

作家は、読み手がいい様に解釈して読まれて、いい様に創られていくが、ある程度の読み手とのズレはないのだろうか。

考えれば、ムラカミハルキはブランド化しているいい例かもしれない。他に、している事はまったく違うが三島由紀夫が浮かんでくるのは私だけだろうか?三島もムラカミもスタイルはまったく違うが「創ることへの意識」がどことなく見える。それを否定はしない。

 

村上春樹というブランドは本人やメディアが創りあげ、多くの人を魅了させるのと同時に、ブランドを嫌がる人もいる。私自身はどうかと言えば、ムラカミハルキはきらいでは決してない。三島もムラカミも、色濃く世の中に残っていくだろう。これからの村上春樹に文筆以外での活躍も期待したいし  いずれ評論も書いてみたいと思う作家である。

 

村上春樹のファンの方々へ。まだまだ開拓の余地はある為、この様な内容で申し訳ございません。

 

夜の時間の過ごし方

実は時間の使い方が下手な私です。朝はなるたけブログを書くか、本を読む時間にあてたいわけです。でも書き終わらず、後回しにしてしまうか、本よりも書かねばという焦燥感が襲ってくるのです。私の焦燥感はいい結果がうまれない。または夜通し原稿を書いていると、眠る時間が少ししかない。このため原稿を書いている期間は、ショートスリーパーになりつつあります。果たしてそれがカラダにいいのかココロにいいのかどうかわかりませんね。ですが、この夜中から朝方にかけての普通寝ているとされる時間帯に起きている毎日が定着しつつあるのなら、これは不規則で悪しき生活では決してなくて、原稿書きのために夜が明ける前すでに起きているという毎日を送ることは、私にとって快調なのです。

 

あなたにとって”快調なリズム”、ありますか?

 

常に何かをしていないといられない、予定が分刻みでみっちりという方。良いと思います。そんな日常も羨ましい限りです。私は数年前、夜中起きていることに罪悪感を感じたことがあります。でも夜になると誘われるがままに、夜の煌々とした街中を歩いていたのです。そして朝方眠る生活。昼間と夜が逆になることに、とてつもなく疎外感を感じ、社会から切り離される感じまでしたのでした。友人は朝に起きていることに対し罪悪感を感じるのだそうです。あー、朝日が出てしまう、早く寝ようと言っていました。私は朝早くから活動できることが嬉しいという人間なので、友人との付き合いはきついものがあったのです。

 ”夜の過ごし方が、人生を制する”でしょうか。朝の時間の使い方じゃない?そんな本もあると言う方もいるかと思いますが、私にとっては夜の過ごし方です。

 

みなさんはどうでしょうか。

 

 

 

 

 

 

クスリのリスク

薬を飲まずに、こころの病いを治したいと願っている人がいるのはご存知だろうか?私は最近知ったのだが、医師にもその様な治療法に積極的に取り組み、講演なども行っているというのだ。今の私の知識ではこのくらいしか言うことが出来ない。しかしたしかに考えてみれば、多くの化学薬品を飲む、それも長期にわたって体に取り入れるのだ。当然多くの人が抵抗があるし、飲み続けた薬は簡単に自分の意思で止めることが出来ないのは不安なことだろう。

 

私は以前、精神障害の雇用の実態について医師はもちろんのこと、当事者、行政、支援事業所など、取材を申し出て、ノンフィクションとして書き上げたことがあった。薬に関しては「飲むことが当たり前」とし、今の今まで考えなかったのだ。薬のことで、これだけ悩んでいる人がいることは、まさに死角だったのだろうか。薬については、あらためて書くことが出来ればと思った。

 

尊い感情

やっぱり私には多くの本に出会うことが必要であると言われた。たしかにその通りだ。多くの本に出会うというより、私の場合は多くの作家にたくさん出会いたい。今の私は、物凄く強欲というか、貪欲というか、書いた人ひっくるめて大切にしたいのである。人と出会い、人と接するように。今書いているのが終わったら、なるべく多くの本に出会おうと思っている。出来れば今すぐと思っているくらいなのだが、今書いているものが終わらない限り、余裕がない。時間がある限り、そちらに充てたいと考えているからだ。

 

人を求めて、人を信じて、時には人とぶつかって憎むこともあるだろう。そんなことが大切なんだと、今あらためて思う。人を憎むことがいいの?そう思う人もいるだろうけど、人と関わっていく限り、必ずぶつかる壁であり、それは人間のもつ当たり前の感情なのだと思う。だから私は、関わってきた人たちを、関わっていく人たちを尊く感じ、愛おしく大切にしたいと今は心から思うのである。環境は刻々と変わりつつある。いつまでも同じ場所にいたくても、いられない。

 

また誰かを愛するだろう。それは小説の話である。今度は誰を愛し、大切にすればいいのだろう。もう二度とこわくて、苦しい思いをさせないために。私ができることって何だろう。

いや、そんな必要もないのか。

 

さ〜て、頑張ろう!

連日の恋のその後。

はてなブログは、投稿している日記なり、文章はかなり目にしていた。

私が見ていたのは、なんてことない(と言ったら失礼だろうか)日記のような文章。だが、その文章は毎回ブレることなく、まるで詩(うた)でも聞いているかのように、流れていく。それがとても楽しみだった。他にもフォローして読んでいた記事があった。よく読んでいたのは、本の紹介が多い日記。これはとても参考になった。年末には「今年読んだ本でよかったもの」は面白かった。あと定期的に読んだのは、デンマーク(だったかな)に住んでいる男性が日常を描いているもの。物語を書いている人も面白かった。結構読んでいたのではてなブログの存在は知っていたのだが、自分が使ってみると、なるほどと思わせる機能がある。文章をたくさん書きたい人にはいいのかもしれない。と思った。

 

とにかく今は、英語の山に埋まりつつある感じだろうか。だいたい今回のテーマに沿った本や、記事は揃いそうです。ですが、今回は英語だけではなく、ドイツ語までもが加わってくるんですね。ドイツ語に関しましては、ドイツ語に精通していらっしゃいます、大先生にお願いしているわけです。それにしても、写真集や自伝は高いですね。ヘルムートニュートンの自伝なんて、最高価格が40万以上もしていました。びっくりです。私は同じ自伝を2千円台で手に入れ、イギリスから到着するのを待っている状況です。Google翻訳やexcite翻訳を使ってみても、おかしな日本語なのですよね。なので、翻訳ソフトを買ったほうがいいのかな…と。どなたか教えて欲しいです…。

訳して、書いて、まとめる。だから、今までとはまた違ったところで苦労しそうです。今回はなぜかエンジンすぐかかりませんが、とにかく頑張りますよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連日の恋。

私、スターをいただきました。くださった方、どうもありがとうございます。

 

今日は雨ですね。家にいる分にはこんな日も決して嫌いではありません。

さて私は肝心要の原稿を書かなくてはならないのですが、このブログをアップさせるまでは、落ち着いて書けそうにないです。

ここだけの話ですが、笑。いま「会いたい人」と思う人っていますか?もちろん今いてもいなくてもいいのですが。私にはいます。自分にとってはとてもとても大切であることに違いはありません。会いたいくらいなんだから。愛おしくて切ないわけなのです。

ですが、昔私は「恋」と言うものは頭にはなくて、自分には「愛」しかないんだ。と、愛こそすべて!なんて考えていた頃がありました。というのも相手が私に「目の前にいた人(私)を愛することはできた」と言ったんです。もうそれ以来、すべてが私にとって「愛」だと思うきっかけになりました。笑 信じてしまいました。「私がしているのは愛で結ばれていて、恋なんてレベルではない。」でも、そう思えばそう思うほど、彼は離れていくような気がしていました。それは彼自身も「そう思ったような気がする」ってことだったんだろうと思うのです。彼は彼で、嘘をついたわけでもなく、おそらく「そう思えたような気がした」ってことだと思うのです。「恋なんて、いわばエゴとエゴのシーソーゲーム♪」なんですよ。恋愛はみんな自分の都合なのではないでしょうか。これはどちらが敗者でも勝者でもないし、ほんと恋とは、エゴなんです。それを擦り合わせていく作業が「恋」なのではないでしょうか。 私はその人のおかげで多くのことを教えてもらいました。いや、相手はそんなことした記憶はないでしょうけど。笑

 

今回の内容はなんかすっきりしていません。このテーマまた考え直して書きます。

 

ありがとうございます。 

 

SMと芸術家

あさのNewsPicksでドラッグストアのマツモトキヨシが 22年ぶりに首位陥落という記事。

 と、書いている間にこの内容を考えるのだが指が止まる。

昼間は書く時間が取れずこの時間になってしまった。結局夜になってこのブログを書いている。

昨日のタイトルは、それそのものでひかれる人もいるのではないか。sadism、masochism、fetishism、eroticism、シュールレアリズムな退廃的世界と言っていいのかな。なんだか自分でもまだよく分かっていない。eroticismについては、思想家のジョルジュバタイユの本を読んだので頭にそれとなしに残っている。まだ追究の余地はある。そのほかに関しては、これから少しづつ手をつけたいと思う。eroticismだが、これは私たちが考えるようないわゆるeroticなものとは少し違う。人間の生と死から始まり、「死におけるまで生を称えること」がeroticismの根底にある。それについても、今は詳細は控えるが、いずれブログに書きたいと思う。

 

sadism、masochismから言うと、よく「SとMだったらどっち?」みたいな会話が男女間であったりするSMだろう。私なんかは、プレイとしてSMとは語れる知識はない。ただ、暴力的だからSだとか、Mだから弱々しいといった解釈はどうなのかと思う。私が考えたいのは、Sのひとと、Mのひとの精神の深いところで為す、精神世界を本来はさしているのではないかと思う。私はSMプレイはしたことがないので、実際のところどうなのかわからない。でも、通常私たちが生活している人間同士の接触より、そうした深い精神で結ばれる主従関係なら、興味が湧くし、憧れはするだろう。ちなみにエロティシズムのバタイユはサドについても論文を残している。

 

そして私はもう一つのシュールレアリズムとは全く別の世界に惹かれるのかもしれない。シュールな世界は非現実的、現実離れとあるが、その別とは、感情が激しく動く世界。それは激情を伴う(もしくはそのような感じの)、音楽(音楽家)が好みである。もちろんそれがすべて激しい音楽とは限らない。静かな中にも、激しいものが見え隠れする。よく知られているベートーヴェンなんかは分かりやすいのではないか。障害を抱えている。失われたものがあると、悶々としたものか何かが表現されるように感じる。特にベートーヴェンに関していえば、ピアノソナタはそのものではないかと思う。私が好きなのであえて出してみた。ベートーヴェンの曲を聴くことで、誰かから感受性を刺激されたいとか、何かを壊されたい壊したい、などと”たまに”思う人間である。

 

それが表現者の技術であり、才能でありセンスなのかもしれない。芸術の表現者は(私は小説も芸術だと思っているのだが)、苦悩とともに存在して作品が生まれるのなら、今ある自分を表現することも、精神世界と繋がるものはないだろうか。この話も定かではないが、精神を病み自殺する文学の作家に多い(?)のは、自分という人間を深いところで、「何か」を得ようとしている、得たのではないか。SMもそうだが「死の淵」というものは、エロティシズムにあるのだ。もう少しフラットな言い方をすれば、何かを得ようとしていたのではなく、何かを手放したくなったのかもしれない。表現とは限りのないものであって、それを突き詰めていけば、そこには何かが待っているのかもしれない。と考えてしまった。

 

ありがとうございます。