ルサンチマンという攻防
昔、そうはるか昔、学生時代友人に誘われ六大学野球を何度か観に行った。
大学はなぜか東大か早稲田。圧倒的に東大が多かっただろうか。
何故早稲田や東大だったのか。特に東大に知り合いや友人がいたわけではないのに、友達はどうして固執していたのか理解できずに誘われるがまま行った。
たしか東大は弱かったような……。
それでも応援する友人を横目に私は東大法学部の応援団長に一目惚れをした。
思い切って声をかけ、電話番号の交換もした。
映画を観に行こうという話が出た。私は当時人気のあったアクション洋画のタイトルの名を挙げた。ところが彼は、そんな映画つまらない、山田洋次監督の「学校」が観たいと言ってきた。
それはもう完全に私を見下していた。
当時知り合いに東大生は二人いた。
私の中では、東大法学部の学生は「防御」、もう一人東大大学院生には「攻撃」とが入り乱れていたような気がする。
つまり、法学部の学生にはルサンチマンでしか自分を守ることができなかった。応援団長をしている時の流れる汗が心を打つ懸命な姿と、知性がにじみ出ている端正な顔立ち。もうそんな手が届かない美しいものへの憧れに、心は夢中になっていた。しかし、それがかえってルサンチマンを深くさせた。
もしかしたら、法学部の応援団長への深くなったルサンチマンを大学院生に晴らしていたのかもしれない。
江戸の敵を長崎で討つ、状態だろうか。
知性とは何だろう。
生まれ持って出てくるもの。それと、歳をとってにじみ出てくるもの。このふたつだろうか。
私も歳をとり、それなりに人を見てきたけれども、今となってはじゃあその法学部の学生が知性があったのかと言ったらわからない。
それにしても支配に屈する必要もない。
なぜなら人の上下はいつ入れ替わってもおかしくないものだから。
弱者だったのがある日突然強者になる。
今自分がしていることも、実はこの頃のルサンチマンからきているかもしれない。
だからこんな文章を書いているのだろうか。