「愛について」
私は精神障害者と接する機会がある。
私は医者でも、カウンセラーでもない。
そのとき、相手が精神障害者という意識があって接しているわけではない。
ここでの内容をどう受け止められるのかは、読んでいただける側に委ねるしかない。
まず、ここで誤解して欲しくないのは、精神障害者が特異というわけでもなく、人間としてそれ以上でもそれ以下でもないということ。世間でいわゆる健常者とされている人と同じである。
ただ知ってもらいたいのは、精神障害者には、何かに飛び抜けて優れている、それは障害からか、取り巻かれてきた環境からか、天才と呼ばれる人間がいることは事実である。
事実そういう男性と出会った。どんな病気を抱えているかは、ここでは言わないことにする。
二人の間に障害は常に生ずる。その度に「愛」は存在しなくなる。それは感情で動こうとする私の心が、そうさせる。冷静に考えれば、すべてを信じ受け止めることができるのである。
しかし、私たちのつながりには精神障害という障害がある。それがすべてなのか、他にも存在する別の障害がそうさせているのかは分からない。が、常に何かしら障害はついてまわる。
私の眼の前には「愛」が存在する。
愛というと、何を想像するだろうか。
美しいものだろうか。憧れるものだろうか。愛されたいと思うのだろうか。
私が愛することについて意識して考えるきっかけとなったのは、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』 二村ヒトシ著 を読んでからというものである。
私が最初この本を手にした頃、愛に対して、誰かのために尽くすのが愛でそれは美しいことなのだ、と思っていた。当時の私は、愛することは自分を捧げるものだ、と信じてやまなかった。
だがそうでなく、愛を与えるということは、そんなに易しいものではなく、決して美しいものではなかった。
何度泣き、苦しみ、投げ出そうとしたことか。だが、最終的にそこには愛おしく想う心だけが、残るのだった。
そして、愛すべき相手のために、とんでもない苦しみに襲われる。
私にとって愛するということは、とてつもなく過酷な道だった。
それは相手に障害があるからだった。相手のために耐える、耐える、耐える。だからといって、相手のせいにはしたくなかった。
いかに愛するか。
「相手を誇らしく思っていた。」それだけだった。
エーリッヒ・フロムはこう言っている。
重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。
そして、フロムの次の文章が、私は好きである。
『他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。』
自分が愛することで、相手の気持ちが救われるというのなら、どんなことでも受けとめようじゃないか。
だから決して被害者にならないこと。これは大事なのだ。